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| ●心の「原風景」とは何か |
| ここにヒントがある。 「老人ホームなんかに行くと、惚けたおばあさんがわらべうたを歌ったりしている。子ども時代に戻って『二度わらし』になって覚えているということは、やっぱり非常に深いところでからだに入っている、ということ。現代詩はそういうふうに絶対にからだには入っている、ということ。現代詩はそういうふうに絶対にからだには入ってこない。頭にしか入ってこない」(詩人・谷川俊太郎さんの話から) 幼い頃の経験が、頭だけでなく体にまで入っているものが原風景だ。それは母の手の温もり、温かい料理と一家団欒、ドロドロ遊び(土の感覚)、手を使う遊び(お手玉など)、外で飛び回ること、静かな読書──そうしたものが体に、情緒・知能をふくめて丸ごと入ってきたものである。そして体で覚えたわらべうたや童謡、唱歌も原風景の中の大切な要素となる。 もともと人間の脳は、人と自然に接し、そこで生活し、体験し、体感することによって啓発されるようにできている。 人間の脳は、抽象的なことも扱えるが、もともとは自然から生まれたものであり、どこまでも自然と地つづきだということである。ドロドロ、ヌルヌルの世界から生命が生まれたように、自然、すなわち大地にしっかり足をつけた生活、人と肌を接する生活をすることで、脳が啓発され、元気になる。 そのために大切なことが自然に親しみ、自然のものを食べ、親や友だちと交わることである。 テレビやゲームという仮想の世界だけを実感的な世界とし、人と群れるのを避け、自分で感じることなく、汗を流すことなく、考えることもなくひたすら受け身であっては、原風景そのものが育まれない。 子どもの頃から大都会のコンクリートのマンションに住み、食べるものは買い置きの食料品をレンジでチンしたもの、かつスナック菓子や清涼飲料水に頼り、忙しい親との肌を接する生活もなく、友だちとの交流はメールに頼り、たまたま同じ部屋にいてもそれぞれ好き勝手なゲームに興じるという生活は、人間の生存の環境としては特異である。特異な環境の中では脳も特異にならざるをえない。 わたしは人間の情緒を育てるものとして日頃から、自然に親しみ、旬のものを食べ、歩くことで自然を感じ、心を耕すことの大切さを訴えているが、その大切さの中に、わらべうた、童謡、唱歌、その他の歌も入る。 それらのすべてが原風景をかたちづくり、人は老いて記憶がさだかでなくなっても、昔懐かしい歌を聴くことで突如としてその原風景をよみがえらせ、脳の血流がふたたび勢いを得るのだ。 痴呆症(認知症とも言う)で人の声に反応しないご老人が、童謡を聴いているうちに涙を浮かべ、号泣した。歌という「刺激」に対して「原風景」が応えている! 歌によって原風景の中で無心に遊んでいる自分を思い出したのだが、そういう原風景をもともと持っていない子どもは、老後、何によって脳への刺激を受けるのだろうか。 そう思うことはつらいことだし、大人の責任である。母親や父親が子どもにしてやれることは、自然の中で遊び、美味しい手料理を食べ、童謡や唱歌を一緒に歌い、子どもにとっての風景画を色彩豊かにしてやることだろう。 |
| ●歌が「子どもの脳」と「高齢者の脳」に必要なわけ |
| かつてわたしも参加した座談会で岩井正浩氏(神戸大学教授)が「十二歳ぐらいでわらべうたを歌わなくなって、つぎは孫が生まれる世代になってまた歌うんですね」と語った。 このことを肯定的に眺めれば、わらべうた、童謡、唱歌は、幼い子と高齢者から必要とされていることになる。 もちろん高齢になって歌うのは、孫の子守のためだが、もっと積極的な意味がそこにはあると思う。 「子守歌」を見直そうという運動がある。 子守歌には親子のきずなを深める効果があるからだが、もちろんこの裏には最近の母親が子守歌を歌わなくなったという傾向がある。 乳幼児食品を扱っている「和光堂」が、2003年、三歳未満の子どもを持つ全国の母親を対象にアンケートを行ったところ、 「子どもを寝かしつけるためほぼ毎日子守歌を歌う」14.6% 「時々」31.3% 「全く歌ったことがない」22.4% だった(読売新聞2004年9月20日)。 子守歌を歌ったのはいつ頃の母親までか、という興味あるテーマを調べているグループもある。 これはたしかに大切なことで、子育ての際、子どもに子守歌を歌ってあげたお母さんは、戦後のいつ頃までいて、いつ頃からいなくなったのか(あるいは少なくなったのか)。 おんぶをして育てたのはいつ頃の母親までなのか。 そのことと親子の断絶や少年犯罪は関係があるのかどうか。 今後の研究を待ちたいが、脳の研究でも、幼児期にテレビ漬けにされてきた子どもの脳の発達の遅れが指摘されている。 テレビ番組の前で人間は情報に対してはほぼ百パーセント受け身になる。テレビゲームも同じで、テレビゲームをやって伸びた子どもの能力は、指の反射神経だけだったという指摘もある。 それと反対に母親にしっかり抱かれ、体温を感じ、心臓の鼓動を聴き、そして子守歌を聴きながら育った子どもは、情報を全身で受けとめ、五感を刺激されることで脳全体を活性化させることができる。体全体を通して情報が伝えられ、脳のソフトウェア(脳の配線)を育てているのである。 そのソフトウェアが十歳頃まで未完成だと、人間はさまざまな歪みを持つことになる。 子ザルを六ヵ月間、親や仲間から隔離してしまう実験がある。親とのタッチングや仲間と群れる体験がなく育った子ザルは、仲間とのつきあい方がわからず、人間で言うところの「引きこもり」と同じ症状を示す。 親が子どもを抱きしめる、子守歌を歌うなどの行為をめんどくさがり、幼児をテレビの前にずっと座らせてしまえば人間にも同じようなことが起こる。 子どもとどうつきあえばいいかわからないという親も多いそうだが、とりあえず子守歌から始めればよいと思う。 親と子が一緒に過ごすその時間は、他人が入り込めない母子だけの温かい時間だ。 高齢者の脳や感情に唱歌や童謡が影響するという話を前にしたが、同じことはもちろん子どもにも起こる。 茨城県つくば市で音楽教室「とんとんやかた」を開いている近藤信子さんという方がいる。近藤さんは子どもとのコミュニケーション不足に悩む母親のためにさまざまな活動を続けているが、読売新聞(平成13年3月7日付)の近藤さんの紹介の記事にこんな話が載っていた。 小学校低学年の児童で、どうしても声を出せない子がいた。歌いながらじゃんけんをする「たけのこめだした」をしていた時だ。 たけのこめだした はるさきゃひらいた はさみで ちょんぎるぞ えっさ えっさ えさっさ 最後の「さ」でじゃんけんをする時、思わず「さ」と声が出た。本人が一番驚いた顔をした、と。「心を解き放つ、これがわらべうたのもつ力なんです」と近藤さんは語っていた── 幼児期に聴いたり歌ったりした子守歌、わらべうた、お手玉歌、数え歌、童謡、唱歌などはいずれも脳の配線づくりに役立っている。 「脳の可塑性」ということばがある。 脳に刺激を与えれば神経細胞同士がドッキングして脳の配線が増えるというのが「脳の可塑性」だ。脳に刺激を与えることは、脳の成長期である十歳頃までの子どもに欠かすことができない。 しかしじつは同じことが高齢者の脳にも言える。 一般に人間の脳の配線は二十代までに完成し、あとは減退するだけだと言われているが、勢いは衰えるといえども、何歳になっても人間の脳(の配線)は成長し、新しい配線をつくり出していることが証明されている。決して脳の老化を憂い、悲観的になることはないのである。 インプットを続ければ脳は反応し、新しい配線の芽が生まれる。それは七十代、八十代になっても変わらない。子どもの脳も老人の脳も刺激さえ与えれば反応し、脳の配線を生み出すという事実にもっと注目したい。 わらべうたや童謡を歌う時期が、幼児期と高齢者に集中しているのは、脳が育つ時期と衰える頃を見計らった「神」のなみなみならぬ配慮かもしれない。 歌の脳への影響はすでに見てきた。童謡や唱歌を聴いて号泣する要介護のお年寄りは、ほんとうにひさびさに強い刺激を脳に受けたのだ。 「脳の可塑性」は子どもの脳にも六十代、七十代、八十代の脳にも起こりうる。脳は筋肉と同じで、鍛えれば鍛えるほど老化が遅くなる。逆に刺激を与えることを怠れば、とめどもなく退化していく。 つまり歌うことも、俳句を詠むことも、絵を描くことも、散歩をすることも、料理を覚えることも、みな脳への刺激となり、新たな配線を生み出す元になる。 人間は何歳になっても「カ・キ・ク・ケ・コ」が大切というのがわたしの持論だ。 「カ」は感動。 「キ」は興味。 「ク」は工夫。 「ケ」は健康。 「コ」は恋。 「老い」は感動が失せ、興味をなくし、工夫を忘れ、健康を損ない、恋心を抱かなくなったとき確実に訪れる。 しかし「カ・キ・ク・ケ・コ」をしっかり実践しているかぎり、人間の脳は衰えないし、ボケることもない。 もっと歌を生活の中に取り入れたい。 音痴もご愛嬌。 散歩のとき。ひとりでいるとき。配偶者といるとき。風呂の中で、庭で、旅先で好きな歌を歌う元気を失いたくないものである。 |
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