立ち読み Shinkosha Book Web 新講社

なぜか「娘に好かれる父親」の共通点
多湖 輝
ISBN:4-86081-068-6 C0095
発行年: 2005年3月1日
定価: 1,365円(税込)

まえがき─父よ、あなたは娘に好かれていると「断言」できますか?
 女の子が生まれると、父親の目尻は二センチぐらい下がります。
「これがまたかわいいんだ。もう誰に何と言われようと、親バカでかまわない」
 そんなことを言って、幼い娘の写真とかツーショット写真を、会社の仲間や仕事先に見せびらかしたことが、どのお父さんも一度や二度はあるはずです。
 ところが、目の中に入れても痛くないほどのかわいがりようで育ててきたのに、いつの間にか娘との距離が離れていってしまいます。いつしか娘のほうが、父と距離を置くようになってしまうのです。
 父親が一歩出れば、娘は二歩下がるという感じでしょうか。
 ここで多くの父親は娘がわからなくなってしまいます。
「そんなに露骨に避けなくたっていいじゃないか」
 というわけです。
 小さい頃はあんなに「パパ、パパ」となついていたのに、なぜこんなにも避けられてしまうのか、いったいどこですれ違ってしまったのか。「お父さんの洗濯物といっしょにわたしのを洗わないで、お母さん」などというセリフがなぜ娘の口から出てくるのか。悩む父親は意外に多いのです。
 あるいは、一時期、娘が父を避けるのはハシカのようなもので、時期が過ぎればまた昔のようになるだろうと楽観視している父親もいます。
 楽観視というよりは、そこに一縷の望みを託しているということかもしれません。
 いずれにしても幼い少女の頃のままの「パパ大好き」という関係が続いている父娘のほうが少ないのです。
 なぜそんなふうになってしまったのでしょうか?
 距離ができた関係を昔のように近いものすることは可能でしょうか?
 そのためにはどうすればいいのでしょうか?
 そんなことを、娘をもつお父さんの立場に立って考えてみたのがこの本です。
 と言っても、まだ娘が幼いお父さんは、「うちの娘に限って自分を避けるようになるはずがない」と楽天的に考えているかもしれません。
 娘が思春期を迎えた頃のお父さんは、「その『まさか』がわが家で起きていて、最近は娘と話もできない」とやや呆然としているかもしれません。
 あるいは、すでに成人した娘といっしょに暮らしているお父さんは「忙しさにかまけているうちに、この他人行儀の関係は今さらどうすることもできない」とあきらめているかもしれません。
 この本では、そんなすべての日本の父親のことを考えていこうと思っています。ですから今はまだ娘が幼くていい関係が続いているお父さんにも、あるいは転ばぬ先の杖として役に立つのではないかと思います。
 距離ができてしまった娘との関係を修復するといっても、娘のご機嫌をとってすり寄っていくのではありません。
 そんなことをしても距離は埋まりません。
 そうではなくて、むしろ今、娘とはうまくいっていなくても、父親らしく娘と接していくにはどうすればいいのか──父親としての自然体の姿を考えていきたいと思います。
 父親には父親の役割があります。娘との関係を再考するというのは、軽くなってしまった父親の役割を取り戻すということでもあります。ふたたびよき父親を演じるにはどうすればいいのかということでもあります。
 そんなことをみなさんといっしょに考えていきたいと思います。
第1章 年頃の娘と父の「心」は、なぜすれ違うのか?
●「父親は後ろ姿で教える」は逃げ口上です
 よく「父親は後ろ姿で教える」あるいは「背中で教える」と言います。子どもたちに言葉であれこれ諭すより、自分の生きざまを見せて何事かを伝えていくということでしょう。
 たしかにその通りではあります。でも不器用な父親たちは、それを逃げ口上にして娘と面と向かってつきあうことを避けているようにも感じます。
 あるいは何を言ってもわかり合えないと思い込み、半ばあきらめ顔で「しょせんは後ろ姿でしか教えられないんだろうな」とため息をつく父親を何人も知っています。
 こうした不器用さと間違った思い込みが災いして、娘と向き合えずに背中ばかり見せてしまうのかもしれません。
 とくに娘をもつ団塊の世代の父親は要注意です。
 むしろ「父親は後ろ姿で教える」のたとえは、自分を慰めながら「これでいいんだ」と自分を納得させるために使っていることが多いのではないでしょうか。
 残念ながら父親の後ろ姿は、それほど多くのことを娘に伝えてはいません。思いを伝えようとすれば、やはり娘と向かい合うほうが自然でしょう。
 しかしそうは言っても「それができないから苦労しているんだ」と言うお父さんが多いはずです。
 だから「父親を演じる」のです。
 ところが不器用な父親は娘とホンネで接しようと思ってしまいます。もちろんこれは間違いではありません。
 ただ、むき出しのホンネは時として無神経とみなされます。
 たとえば、父親なら誰でも年頃の娘がどんな男性とつきあっているか気になります。これはホンネの部分です。
 そこで多くの父親は心配のあまり娘にこんなふうに言ったりします。
「おまえ、どんな男とつきあっているんだ」
 これが不器用な父親のむき出しのホンネです。
 まさか悪い男にだまされていないだろうなと心配する気持ちが、ストレートに出てしまうのです。
 ところが娘のほうは、ふだんあまり会話がない父親から突然こんなふうに言われて腹を立ててしまいます。「なんて無神経な言い方をするんだろう」というわけです。  こんなとき、「お父さんはわたしのことを心配してくれているんだ」と思う娘はまずいないはずです。
 むしろ「お父さんはわたしのことを信用していないんだ」という気持ちになるでしょう。これではその後の会話は弾みません。父親のほうは言いっぱなし。娘のほうは父の言葉を無視しておしまいということになっているのではないでしょうか。
 後ろ姿で教えていると思い込んでいると、父と娘の関係はこんなふうになってしまうことがあります。「後ろ姿で教える」というのは、娘と会話をしないということではないのです。むしろ、とるに足らないような日常的な話を娘と続けるうちに、娘は父の後ろ姿から何事かを学び取るということなのです。
 問題は、何でもない日常会話を娘と続けられるかどうかです。あなたはコーヒーやお茶を飲みながら、30分、1時間、娘との時間を過ごせますか。
 なかなかむずかしいとは思いますが、実はそうやって過ごす時間が、父親を演じている時間なのです。
 1日30分、1時間でもかまいません。がんばって父親を演じてみてください。
第2章 娘がある時期「父を避ける」のはやむを得ないこと
●娘のイライラは夫婦そろっていなしてしまうこと
 妻の協力についてもう少し話を続けます。娘との冷戦≠ノ関して、妻には父親側のサポーター役を演じてもらうのが好ましいと思います。主役は父と娘なのです。
 便宜的に冷戦≠ニいう言い方をしていますが、少女を一人前の女性に育てていくという重要なステップになるのがこの時期です。冷戦≠ニいってもバトルではなく、教育的な意味合いを多分に含んでいると理解していただきたいと思います。
 このようなことがあるので、誰が娘と向き合っているのかをはっきりさせておく必要があります。父母連合≠ナはなく、父がその個性を前面に出して娘と向き合うということなのです。
 母親にはそれを脇から支える役割を期待したいのですが、サポーターといっても、たんなる父親応援団ではありません。
 父のいない場所では娘の相談相手になったり、父娘戦争≠ェヒートアップしたときは仲裁役になってもらったりするなど、多方面でのサポートが期待されます。
 つまり、うまく役割を分担し、夫婦が一つになって娘の成長を促すというのが、この時期もっとも大切なことなのです。
 すでに何回かふれていますが、この時期は娘にとって精神的にかなり不安定な時期なのです。
 こんなとき、父と母が協力し合っているのを見るのは、娘にとって大きな精神安定効果となります。父と母の愛情に包まれているという安心感があって、イライラをぶつけられるということもあるのです。
 もちろん、イライラをぶつけられるほうはたまったものではありません。反応はさまざまですが、是非とも避けたい二つの反応があります。
 一つは父親もイライラして、娘に激しく食ってかかるような反応です。「その態度はなんだ、そんなにお父さんのことがいやなら、この家を出ていけ」などと、大声を張り上げて娘のイライラに反応します。
 最悪のパターンは、これに父親の暴力が加わってしまうことです。
 これでは彼女は救われません。彼女も父親が心底嫌いでいやがらせのようなことをしているわけではないのです。前にハシカにたとえて説明しましたが、言ってみれば熱に浮かされて行動しているだけなのです。
 それを頭ごなしに怒鳴られたり、暴力をふるわれたりしたらそのことによって心に傷がついてしまいます。この傷によって、ほんとうに父親を心底嫌いになってしまうかもしれません。
 怒鳴ったり、殴ったりは是非とも避けたいものです。
 逆もあります。イライラする娘に過剰に反応して、まるではれ物にさわるように接することです。
「どうしたの? 何を怒っているの?」などと娘に声をかけます。
 娘も原因がわからないからイライラしているのです。
 しかし父親から声をかけられたことによって、ほんとうは別のところにあるイライラの原因が父親に押しつけられます。
 そこで「うるさい」とか、「うっとうしい」などと、荒い言葉を投げつけてきます。イライラが頂点に達してしまうのです。すると父親は「わかった、わかった」などと言って、その場を離れてしまうのです。
 これもできれば避けたい反応で、こんなことを繰り返しているうちにただイライラをぶつければ、相手が何とかしてくれると考えるようになってしまいます。
 どうすればいいかというと、夫婦二人で話をするなどして、仲のいいところを見せつけるのです。イライラの相手にはならないという姿勢を二人で示すのがうまいやり方だと思います。
第3章 こんな父が娘を「幸せ」にできる!
●いくつになっても娘をほめられる父は、娘を幸せにします。
 父親に「これおいしいね、焼き加減がちょうどいい」と言われたのが料理好きになるきっかけになったという人がいます。小学校1年の頃、娘が父親につくったのは目玉焼きでした。
 学校の成績も、母親に見せるとだめなところを指摘されるのに、父親はいいところしか言わなかったと言います。
 成績は「ふつう」が多かったのですが、父親はそんなところには目も止めず、先生の評価を読んでほめてくれたそうです。「宿題をちゃんとやってくると書いてある。えらいじゃないか」という具合です。
 成績もふつう、先生の評価もよくないというときがありました。
 母からはさんざんに言われ、「これじゃさすがのお父さんもほめようがない」と断言されていたのですが、それでも彼女は父親に成績を見せるのが楽しみだったと言います。
 成績表を見ていた父は、「今学期は1日も休んでない、それに身長がぐっと伸びているじゃないか。これはすごいぞ」とほめました。帰宅した父の料理を温めていた母親はさすがに吹き出してしまいましたが、父は真剣です。
「継続は力なりっていう言葉がある。休まずに学校に行くことが大切なんだ。よくがんばった」
 こんなふうに言われて、彼女はのびのびと育ちました。ごくふつうの高校に行き、一年浪人してふつうの大学に入りました。
 浪人が決まったときはさすがに落ち込んでしまいました。
 しかしこのときも父親はこう言って彼女をほめてくれたそうです。
「君の努力が正しく評価されなかっただけのことだ。一生懸命努力した君はえらかった。お父さんは一生懸命勉強する君を見て、頭が下がった」
 このときはほんとうにうれしかったと言います。この父の娘に生まれて幸せだったと心から思ったそうです。
 上手にほめられれば誰でもうれしいものです。それに、いくつになっても人は誰かにほめられたいと思っています。問題はほめ方です。
 たとえば子どもの成績が上がったからといってそれをほめたら、成績が落ちたときは、叱らなければならなくなってしまいます。これは上手なほめ方とは言えません。
 ほめ上手な父親なら、結果ではなくて努力のほうをほめるでしょう。これならほめられた娘は、「お父さんはわたしのことをちゃんと見守っていてくれる」と感じます。ここが大切なのです。
きちんと娘を見ていなければ上手にはほめられません。ほめるにもツボがあるのです。娘を上手にほめられる父親は、そのツボをよく知っています。
 もう一つ、ほめるタイミングもあります。いいことがあったときだけでなく、落ち込んでいるときにもほめるタイミングがあります。「がんばれ」と励ますより、「よくやっているじゃないか」とほめるほうが勇気がわいてくることがあるのです。
 ツボとタイミングをはずすとたんなるおだてになってしまいます。これは時として嫌みにとられてしまうので注意が必要です。
 ただ、娘のことを愛していて、勇気づけてあげたいと思っていればツボやタイミングをはずすことはありません。ほめてあげたいと思ったらどんどんほめることです。
第4章 娘に好かれる父は、世の中のルールを教える人
●「してはいけないこと」は昔も今も変わらないと教えよう
 世の中のルールを娘に教えることについて、お父さんたちは少し腰が引けているのではないかと感じます。
 きつい言い方かもしれませんが、いかにも自信なげに、弱腰なのです。
 なぜなのだろうと考えていて、もしかしたら昔と今は考え方が大きく違うと勘違いしているのではないかと思い当たりました。
 年長者が「オヤジ」などとさげすまれ、まともなことを言っても「古い」と片づけられてしまう風潮があります。こんな時代の中で、父親たちが少し自信を失いつつあるような気がします。
 たしかに世の中の上っ面は、明るく軽く変わってしまいました。しかし、根本は変わっていません。してはいけないことは昔も今も変わらないのです。
 たとえば弱い人をいたわるとか、明るく譲り合う「おたがいさま」の気持ちを育てるなどというルールは変わっていません。
 それを家庭で教えなくなったため、電車のアナウンスで車掌さんが仕事の一部としてみんなに「お願い」しているのです。
 子どもを含めた若い人がお年寄りに席を譲るなどということは、本来「お願い」されてやるようなことではありません。
 やってあげたいと思い、やらなければならないと自発的に思ってごく自然に体が動くものです。
 この心を忘れてしまうと、「譲る譲らないは個人の自由」などという間違った自由がはびこることになってしまいます。
 これは自由などと呼べるものではなくて、「利己主義」「自己中心主義」「エゴ」というもので、自由とは似て非なるものなのです。
 子どもの頃、父親と電車の座席に座っていてお年寄りが乗ってくると、父親はこんなふうに言ったはずです。
「席を(あの人に)譲ってあげなさい」
 もっとも、父親からこんなことを命令される前にはじけるように席を立ったか、あるいは、それが面倒だから最初から座らなかったというのがごくふつうのことでした。
 繰り返しますが、父親が席を替わるのではなく子どもが替わるのです。これも、外国では当たり前に見られる光景です。
 アジアだけでなく、欧米でも父親が子どもを立たせるという光景はよく目にしました。
 ところが日本では、親が席を譲って子どもが座っていたりします。あるいは見て見ぬふりをします。
 これはどちらも間違いです。
 父親が娘にそっと「お年寄りに席を譲ってあげてくれないか」と言って、娘が進んで替わってあげられるようにしてほしいのです。
 理屈ではなくて、世の中のルールはそういうものなのだと教えてほしいのです。
 お年寄りに席を替わるというのは副次的なことです。
 そうすることによって、弱い人をいたわる、あるいは「おたがいさま」の気持ちを育むということを身につけさせてほしいのです。

詳細ページへ
当サイトに掲載するすべての画像およびテキストの
無断複写・転用・転載は固くお断りいたします。
Copyright(c)2009 Shinkosha.All right reserved.