立ち読み Shinkosha Book Web 新講社

歩く人はなぜ「脳年齢」が若いか?
大島 清
ISBN:4-86081-075-9  C0095
発行年: 2005年5月9日
定価: 1,365円(税込)

まえがき──楽しく歩けば、脳が若返る
  楽しく歩くと、脳の年輪を重ねていても若く見える。
 だから毎日せっせと歩いている人は、脳年齢が若々しい。
 この本ではそんなことを書いていく。
 気分的な話ではなくて、わたしの専門である大脳生理学にもとづく根拠をもった話だ。
 ただし、小むずかしい話はしない。
 それでも脳の仕組みの話をしなくては、「歩くことがなぜ脳の若さにつながるのか」という話を展開できない。
 そこで大胆に、脳をアンコのつまった饅頭にたとえて、そのことを簡単に説明してみることにした。最初のほうで、そんな話が少しだけ出てくるはずだ。
 小むずかしい話ではなくて、歩くとなぜ気持ちがよくなるのか、歩くとなぜボケ防止になるのかを、考えていきたい。
 若さとは必ずしも年齢のことを意味しないというのがわたしの持論だ。
 年齢的に若くても覇気がなく、どこを見ているのかわからない若者がいる。
 その一方で、熟年世代になってもいろいろなことに好奇心をもち、毎日、毎時間を生き生きとすごしている人がいる。
 比べてみれば、「若さ=年齢ではない」ことがわかる。若さとはつまり脳の若さだ。
 そして多くの場合、脳年齢の若さは心身の若さのベースになっている。
 脳が若いから生き生きと行動し、生き生き行動するから、さらに脳も若くなる。
 こんな繰り返しがごく自然に行われている。
 まさに良循環だ。
 この良循環を生み出すもとになるのが、 2 本足をもった人間の「歩く」ということなのだ。歩くことによって、それまで眠っていた脳が活発に活動を始める。脳が生き生きと活動を始めると、気分がよくなってさらに歩きたくなる。
 自転車の最初のひとこぎをがんばれば、後はだんだん楽になるのと同じことで、あまり歩かない人も最初の 1 歩を踏み出しさえすれば、後はどんどんと楽しくなる。
 大脳生理学ではこれを脳の「報酬行動」と呼ぶのだが、わたしたちの脳は楽しいことをよく記憶していて、それを繰り返そうとする。
 ちょっと楽しければ、今度はもっと楽しくとより大きな報酬を求める。
 もっと楽しければ、もっともっと楽しくなりたいと努力する。
 こうしているうちに、気持ちが若返り、脳が若返り、肉体も若返る。ボケ知らずなのである。
 わたしたちの脳は使えば使うほど活発に動き、物事を前向きに考えようとする。
 脳のこうした働きに目を向けさえすれば、歩くのが楽しくなるはずだ。
 楽しく歩くというところがポイントだ。
 では、どうすれば楽しく歩けるか?
 この本ではそんなことも考えてみたい。
 わたしの趣味の中心に「歩くこと」がある。歩く楽しさは歩いてみなければわからない。
 頭の中であれこれ楽しさを思い描いても、説得力がないように思う。
  歩く楽しさを知って毎日歩いている一人の実践者の話として楽しく読んでいただき、よし、自分も今日から歩いてみようかという気になっていただければ幸いである。
■第1章 なぜ歩く人は、みな若々しいのか
●歩くだけで脳の全体が刺激される
   歩くだけで体と脳が若々しく保てるのはなぜかということをもう少し詳しく見てみよう。
 わたしたちはもうとうの昔に忘れてしまっているが、 2 本足で立って歩くというのは実は並大抵のことではない。
 赤ちゃんを見てみればいい。ハイハイをしていた赤ちゃんが、つかまり立ちをして、 1 歩を踏み出すまでにはかなりの時間がかかる。これは、たんに足の筋肉の発達だけではなく、 2 本の足でバランスをとって歩くという脳の回路設定に時間がかかっているのだ。
 ハイハイをしていた赤ちゃんが、やがて立って歩くようになるというのはそのまま、人間の進化を再現している。
 赤ちゃんの脳も人間の進化の過程をたどって成長しているのだ。まず生きていく上で欠かせない脳幹の部分と、おっぱいを飲んだり、快・不快を泣き声で訴えたりする本能を司る大脳辺縁系が先に発達する。
 少しずつこれらの神経回路がつながっていって、やがてものを考えたり、自分の意志を伝えたりする大脳新皮質が発達して、ここが司令塔≠ニなる。こうして本能の脳である大脳辺縁系を少しずつコントロールできるようになるのだ。
 この頃になると、赤ちゃんは少しずつ歩けるようになる。さらに大脳新皮質が発達して、よちよち歩きの段階を経てスピードをコントロールして歩けるようになっていくのである。
 一口に大脳新皮質と説明しているが、ここも多くのブロックに分かれている。
 このブロックを統括しているのが前頭前野で、言ってみれば「知の司令塔」である。ここには言語中枢の一部や運動を司る感覚野、視覚や聴覚味覚を司るブロックなどから情報が送られてくる。
 知の司令塔である前頭前野でこれらの情報が統括され、「意志」や「行動」が決定されているのだ。
 こうした複雑なネットワークを総じて、脳の働きと言っている。若々しさを保つというのも、煎じつめて言えば大脳新皮質のネットワークが生き生きと機能しているということにほかならない。
 さて、こうした前提を踏まえて歩くことに話題を戻そう。
 伝い歩きから始まった赤ちゃんの 2 足歩行はやがて走ったり飛んだりということができるようになるまでに発達する。
2 本の足でこうした複雑な動きをするのだから、脳と足の間では実に複雑な信号のやりとりが行われている。
 わたしたちは無意識に歩いているが、 1 歩を踏み出すごとに足の筋肉から大量の情報が神経を伝って大脳新皮質の運動を司る感覚野に届く。脳への情報伝達速度は実に秒速 100 メートルを超えている。
1 歩を踏み出すときでも、足はどのように動いているのか、体全体のバランスはとれているか、接地面は安全か、勾配はどうなっているかなどの情報が瞬時に脳に届き、次々に指令を受けながら足の筋肉が動いて次の動作につながっていく。
 さらに歩くためには目で見、手をふってバランスをとり、皮膚で空気の温度を感じ、花で匂いを感じるというように、体のいろいろな感覚を使っている。これらの情報もすべて大脳新皮質に届く。
 考えてみればこんな複雑なことを 1 歩ずつ行ってわたしたちは歩いているのである。この膨大な情報のやりとりがそのまま、脳を活性化させることにつながる。
 わたしたちは滑ったり、何かにつまずいたりしたとき以外はとりわけ脳の生存を意識していない。
  それでも歩いているだけで無意識のうちに脳のネットワークは複雑で活発な動きをしている。つまり、歩き続ける限り「脳年齢」を若く保てるということになるのである。
■第2章 どんなときも“とりあえず”歩けばいい
 気持ちがうつうつとしたら、とりあえず歩いてみよう
 脳内の神経伝達物質の一つであるセロトニンが注目されている。歩いているとセロトニンが増え、爽快感が増すからだ。
 たしかにセロトニンは精神安定剤とよく似た分子構造をもっていて、興奮や不快感をしずめる作用がある。
 うつうつとした気分は、セロトニンの欠乏によって引き起こされることもあるので、気分が晴れないときはセロトニン神経を活性化させるため歩くといいだろう。
 ただし、漫然と歩いていてもセロトニン神経は活性化せず、セロトニンも増えない。セロトニンは規則正しいリズム運動の中で活性化するとされているので、歩くことに集中し、筋肉を動かしていることを意識することが大切だ。
 散歩と言うよりは、エクササイズとしてのウォーキングに近い動きが、セロトニン神経の活性化には適していると言えるだろう。
 もう一つ、セロトニン神経は太陽光によって活性化されると言われている。だから、できれば朝のすがすがしい時間にその日昇ったばかりのフレッシュな太陽光を浴びて歩きたい。
 朝の時間帯はセロトニンと同じ脳内神経伝達物質であるドーパミンも増えているから、本当なら何もしなくてもすがすがしいはずなのだ。だからもしも病気などの原因がなく、何となくうつうつとした気分が続くようなら、ストレスが溜まっていると考えたほうがいい。
 こんなときはとりあえず、気分転換に歩くのがいい。
 重い気持ちを断ち切るように、「えいやっ」とばかりに家を出れば、すがすがしい朝の外気で気持ちがシャキッとする。
 軽く準備運動をして、うつうつとした気分をふり払うように、一定のリズムをとって少し早足でさっさっさっと歩いてみる。
5 分でも 10 分でもいい。少し早足で歩いて、息が切れるようならゆっくりとした歩き方に変えて、朝のすがすがしさを味わいながら歩く。
 こんなふうに歩くと、少しは気分もよくなるはずだ。もちろん歩くのは朝に限らない。うつうつとした気分におそわれたら、とりあえず気分転換に歩いてみるのだ。いつもは自転車で買い物に行く距離を歩いてみてもいいだろう。
 買い物も気分転換にはとてもよい。でも買い物袋をぶら下げて帰ってくるのはつらいから、小さなリュックを背負っていくといい。
 歩きやすい靴をはいて、うつうつとした気分を捨てに歩いて買い物に行く。そんな動機づけをすれば、歩こうという気分になるのではないだろうか。
■第3章 “ながら”ウォークで脳を若返らせる
 ときには自分と対話しながら歩く
 わたしは友人と話しながら歩くのも好きだし、一人で歩くのも好きだ。どちらにも甲乙つけがたいそれぞれの楽しみがある。
 強いて表現するなら、一人で歩くときは充電のとき、友だちと歩くときは発散のときと言えるかもしれない。
 とくに一人で自然の中を歩いているとき、心が充たされていくような感じがする。言葉にできない快感で体中が充たされていくような感じがするとき、わたしはその感覚にひたって、無言で歩く。
 少しきざな言い方をすれば、大きな自然のリズムと小さな自分のリズムが溶け合って一つになったような感じだ。
 こんなとき、無意識のうちに自分と対話しながら歩いていることがある。
「なかなかよくやっているじゃないか」という声が聞こえる。わたしがそう思っているのかもしれない。でもそうではなくて、目の前の大きなブナの木がそう言ってくれているような気もする。
 すなおに「ありがとう」という感謝の言葉が浮かぶ。実際に声に出して、ブナの木にそう言葉をかけることもある。
 森の中にごろんと転がっている大きな岩が「何もそうあくせくすることはないな」と言う。「まあね」と応えて通り過ぎる。
 こんなひとときがわたしは好きだ。
 何かを考えて森の中に入るわけではない。むしろその逆で、自然のリズムに合わせようと思ってよけいなことを考えずに歩いていることが多い。
 こんなことは友人がいたらとてもできない。そんな気分にならないし、仮になってしまって、わたしがブナの木に突然声をかけたら、友人はいぶかしがるだろう。自分との対話は、一人だけの楽しみだ。
 ふだんの暮らしの中ではこんなふうに自分を見つめ直す機会はなかなかない。それだけ忙しく暮らしているということもあるだろうが、忙しさのせいばかりではないようにも思う。
 あるいは人工物に囲まれた暮らしの中では、すなおに自分と向き合えないのかもしれない。
 だからもしも自然が嫌いでなかったら、一人きりで大きな自然の中を歩くことをお勧めする。こんなことだけですなおな心で自分と向き合える。
  恥ずかしがらずにそんなことができる場所はそう多くはないはずだ。

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