立ち読み Shinkosha Book Web 新講社

いつか死にゆく人としての 小さなケジメ
斎藤茂太
ISBN: 4-915872-22-X  C0095
発行年: 1997年11月19日
定価: 1,500円(税込)


プロローグ なぜ、生にケジメをつければ死は平気なのか

1 死がこわくなくなる

 人生には、出発点もあれば終点もある。
 人は生まれたときから終点に向かって、笑いながら、怒りながら、わき見をしながら、昂然と胸を張りながら、そして、成功を喜び、失敗に泣き、ともかく例外なく歩いていく。

 最初にこの世に店を広げたのだから、最後は「店じまい」だという人もいる。
 どんな店で、どんなものが並んでいるかは、人それぞれだ。
 たくさんの恋の体験、多くの旅行の体験、あるいは仕事の喜びと悲しみ、家族といることの温かさやケンカのこと。
 そういったものが、店の中に雑然と並んでいる。
 やがて終点にたどり着くことがわかっているのなら、ある時から、少しずつ店をしまう準備をしたほうが、後に残された人の迷惑にならないし、自分も気持ちの整理がつく。
 外出するときは、何が起こるかわからないから、いつも洗いたての下着に着替えていくという人がいる。これも、店をしまう覚悟のひとつなのだろう。

 終点にあるのは死である。
 なぜ死がこわいかといえば、生きている人はまだ誰も体験していないからだ。
 ジェットコースターもこわいが、あれは乗った人が大勢いて、こわかった、いやなんでもなかったといってくれるから、なんとなく大丈夫なんだなとわかるが、死だけは誰も体験していないから、平気だった、案外楽だったよ、といってくれる人がいない。
 自分の死は、自分が最初に体験するしかないわけだから、不安があって当然である。
 そこで、昔から、宗教とか哲学が、「死を超越する」ということをいっている。
 多分、ひと握りの人たちは、超越することができるのだろうと思う。
 だが、大多数の私たちにはそれが困難である。
 生活もあるし、子育てもあれば仕事もある。
 死への心構えとはいえ、人生のすべてを死の準備にふり向けるわけにはいかない。
 凡人としては、生きている限りやることが多いからだ。

 ならば、私たちは、それを超越することはできないのだろうか。
 私は、全部は超越できないが、ある程度ならできると考えている。
 不安やこわさの"量"を少なくすることはできると考えている。
 死がこわいのは、そして不安なのは、「生への未練」があるからだ。
 生への未練というのは、生きている限りやるべきこと、やらざるを得ないこと、やりたいことがたくさんあるということだ。
 ふつうに生活していれば、恋もするし、結婚もするし、仕事もするし、旅行もするし、遊びもする。
 そういうものの一切が日常生活ということである。
 つまり、未練とは日常生活を自分は十二分にやってきていないのではないかという気持ちである。

 ふつうに生活することに背を向けて、ひたすら心の修行をするのならよいのだが、それができない以上、私たちは、日常生活を営み、そこでいろいろな夢や希望を抱き、笑ったり泣いたりしながら、終点に向かうしかない。
 そこにできることと、できないことが生じるのはいたしかたがないのである。
 そして、できないことが未練となる。

 生きるということは、欲を持つということである。
 生きる意欲をはじめとして、たくさんの欲を私たちは持っている。
 欲とは、自分はこうありたいということだ。
 こうあればいいなという気持ちである。
 だから、未練は欲がつくり出すともいえる。

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