立ち読み Shinkosha Book Web 新講社

インナーマザー
 斎藤 学
ISBN: 4-86081-029-5  C0095
発行年: 2004年2月10日
定価: 1,575円(税込)



プロローグ──

非合理な罪悪感
 A子さんは30歳です。14歳のときに父親に先立たれ、それからしばらくして不登校が始まりました。高校にも行ったり行かなかったりで、なんとか短大を卒業して就職したものの、「人といっしょにいると緊張する」とか「生きている実感がない」といって、浮遊するように暮らしていました。そうしたA子さんを好きになった男性がいて、行き場を失った感じに悩んでいたA子さんは「とりあえず」結婚したのですが、やはりこの男性との生活にも身が入りません。そうかといって、離婚して実家に戻る気にもなれません。
 こんな状態で治療を求めてきたA子さんと話してみると、やたらに「お母さん」の悪口をいいます。母は「気が利かない」、「鈍感だ」、「冷たい」、こんな状態になったのも、お母さんのせいだといいます。「どうして?」と聞いても、はっきりとは答えられないのですが、現在の不本意な状態が母親との関係からきているということは確信しているようです。聞いてみると、この母親批判は父方の祖母から譲り受けたもののようでした。A子さんの家は両親とも公務員で共働きでしたから、このお祖母さんが幼いA子さんの面倒をみてきたのです。面倒をみながら、お祖母さんは嫁、つまりお母さんへの愚痴をA子さんにたれ流していたのでしょう。よくある話です。父親が死んだとき、お祖母さんは「嫁に追い出される」と脅えていました。実際、数年後には老人ホームに移り、現在もそこで暮らしています。
 私との対話が繰り返されるうちに、A子さんは、父親の死がいまだに実感されていない自分に気づくようになりました。
 あの日、お父さんは元気に家を出て、職場で倒れ、午後には病院で死んでいたのです。A子さんは学校から病室へ行きました。父の枕元にいる母、取りすがって泣いている祖母を見ながら、A子さんは、少し前に知り合った男の子のことを考えていました。彼の家は牧場をやっていて、「夏休みになったら家に遊びにおいで」といってくれたのです。その楽しみのことを考えながら、目の前の光景をぼんやりと見ていました。魂が自分から抜けていく感じがしました。実際、A子さんは今でも、自分の体の内部にあるもうひとつの自分が、頭ひとつ分だけ体から浮き上がっている感覚をはっきりと覚えています。病室を出るとき、A子さんはお父さんの足に触ってみました。生きているように温かかったそうです。
 A子さんは、このときの放心状態(離人症性生涯)をずっと引きずって生き続けてきたのでしょう。実際、彼女にはそのとき以後、数年の記憶がほとんどありません。
 父の死は誰にとってもショックですが、それにしてもA子さんの反応は強すぎるように思いました。こうした場合、私の頭にはひとつの解釈が浮かびます。A子さんは何か非合理的な罪の意識にとらわれているのだ、それは多分、お父さんの死に関連していて、お母さんに向けられたものだ、と。
 おそらく思春期に入っていたA子さんは、父という異性に、今までとは違った感情を向け始めていたのでしょう。この感情は少女たちを不安に包むものですから、彼女たちはそのことをあまり考えないようにして、父親を避けようとするものです。大急ぎで、家の外の同世代の男の子に関心を向け変える娘もいます。この感情はまた母親への罪悪感を生みます。罪悪感は反転して、母親批判として表現されることが多い。一方で、この罪悪感は娘の心の内に取り込まれ、自分に対する苛酷な批判者「インナーマザー」(内なる母)になります。
 インナーマザーは、自分の無能、怠惰、醜さを責め、いっときも心を休ませてくれません。これに取り憑かれた娘は、「仕事人間」になるか「何もしない完璧主義者」になるか、さもなければ「痩せた体を追求する拒食・過食症者」や「容貌にこだわる醜貌恐怖者」になります。
 インナーマザーの形成を妨げるのは、自分の存在をまるごと認めてくれるような母イメージ(これを「安全な母」といいます)なのですが、A子さんの場合、祖母との愛着関係が続いて、これが発達していなかったのは不幸なことでした。このような微妙な時期に、危ない母娘関係の中で、父親に急死されたのは不運でした。A子さんの罪悪感は病的なまでに高まったろうと思います。
 そういうわけで、この時期の娘たちがお母さんを非難するのは、お母さんの嫉妬による攻撃を先制攻撃によって封じるためです。母親のほうに「良い母でなかった」という罪悪感を植え込み、自分と母との関係を安全なものに変えようとする誤った努力なのです。母親を軽侮するために批判する場合もあります。この場合には、「お母さんはあんなに愚かなのだから、母に愛されなくても平気」と、これまた自分のいる場所を安全なものにしようとしているのです。
 母親批判の内容そのものは、じつはあまり重要ではないと思います。極端にいえば、何でもよいのですが、A子さんの場合は、身近に母を批判するお祖母さんがいたので、彼女の口癖を借りたのでしょう。その母親非難が16年にわたって続いているのは、父の死のショックが、この時期のA子さんの感情を凍結し、時間感覚の障害をきたしているためです。A子さんの感情生活はいまだに14歳の少女のままで、現在を生きていないのです。
 このように私は考えたのですが、これをこのままA子さんに伝えたわけではありません。こんなことは彼女の意識に上っていることではないので、伝えてみてもキョトンとされるだけです。代わりに私は、お父さんの死の前後をたどり、心の中でお葬式を繰り返すように勧めました。
 A子さんは、お母さんと一緒に父の倒れた場所に行き、病院への道をたどり、病室を訪れました。父の知人から、生前の父のことを聞いてきました。父の墓に行って佇んできました。そのつどA子さんは14歳の自分の存在を感じ、同時にそれを感じる現在の自分を意識できるようになりました。まもなくA子さんは長い夢から醒めるでしょう。それと同時に、母親への恨みの感情からも解放されるはずなのですが、現在はまだそこまでいっていません。
 子どもたちの母親への思いというのは、ことほどかように微妙かつ複雑なものであるということを示すために、A子さんの例をあげてみました。


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