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心の「立ち直り」の上手い人 下手な人 斎藤茂太 ISBN: 4-86081-041-4 C0095 発行年: 2004年05月10日 定価: 1,365円(税込) |
第1章 そんなに自分を叱りなさんな! 2 「前向き」ごっこに興じることなかれ! 「前向きな気持ちになれない」と深刻に悩んでいる人に、私は、そんなむりをしてまで「前向き」になどならないほうがいいですよ、と答えることにしている。 そのように悩む人は、その前提として「人は前向きであらねばならぬ」と考えているように見える。前向きにならねば、こんなことではダメだ、もっと前へ、もっと前へ……と。しかし、何が何でも「前向きに生きよう」とするのもアブナイ話で、いずれ「前向き」になり過ぎて、気持ちが前のめりになっていく。 この「気持ちが前のめりになっている人」は、姿勢まで前のめりになっているものだ。心と体は連動しているから、すぐにわかる。 子供が通う学校の運動会で、徒競走に飛び入り参加するお父さんの姿を思い浮かべてほしい。わが子にカッコイイところを見せたくて、気持ちは「前へ、前へ」なのだろうが、日頃の運動不足がたたってか足がついていかずに、おっとっとっ、あーっ……と、地面に這いつくばる。そういう人たちを、私は密かに「前向き症候群」と呼んでいる。いや、「前のめり症候群」だ。生活全般にわたって、この「おっとっと」状態で、そのままの勢いでつんのめることもある。 この「前向き」という言葉のアブナイところは、「あまりに正しい」ので、「前向きに生きなければ……」といわれれば、なかなか反論できないことだ。このひとことによって、心の中にあるさまざまな思いを切り捨てざるを得ないような立場に置かれることもある。 身内の者が亡くなって萎えている人に、「いつまで悲しんでいるの。もっと前向きに生きなきゃ」と励ましたつもりになるのは勝手だが、いわれた人は、それは確かにそうですが、もう少しこのままでいたいのです、死者を弔っていたいのです……そんな気持ちを踏みつけるかのように「前向きに」と何かのスローガンのようにいわれたのでは、やりきれない気持ちにもなろう。 前向きになれないときは、むりに前向きになることはない。後ろ向きだっていいのだ。 私が後ろ向きになったからといって、だれかに迷惑をかけるわけではないでしょう。だったら、いいじゃありませんか、ほっといてください……と。気持ちと体が同じ歩調で歩いていってこそ、「正しい姿勢」であろう。「前向きごっこ」に興じることなかれ。 4 自分の「嫌いなところ」も、「それを軽蔑することもなし」だ 「もっと、どうにかならないか」と考えるのは、人の悪い癖なのではあるまいか。もっと効率的にならないか、もっと売り上げを伸ばせないか、もっと客層を広げられないか……まあ、こと仕事に関することならまだいいが、これが「自分自身」に向かい始めると少々やっかいなことになる。 「すぐにクヨクヨしてしまう自分が嫌い、この性格を、どうにかしたい」 「もっとすなおになれたら、もっと人から愛されるのに」 「この優柔不断な性格、どうにかならないものかしら」 ……とはいっても残念ながら「人の性格」というものは、どうにかしようと思って、すぐにどうにかなる代物ではない。 自分の性格をどうにかしたいと思うのは、幸せな気持ちで生きたいからなのだろうが、そういうことならば、自分の欠点やイヤな部分をどうにかしようとするのではなく、そのままを受け入れて日々を過ごすほうが、穏やかな幸せ感を味わえるように思う。 「それを軽蔑することもなし」……これは茂吉の作品の中に出てくる一節なのだが、何となく気に入っていて、私自身よく口ずさむ。 私も自己嫌悪になってしまうことはよくある。人と、しなくてもいい口論をしてしまったとき。あれほど女房から「忘れないでね」と念を押されていたはずのものを、そのときになって「あ、忘れた」と気づかされたとき。仕事が、うまくいかないとき。人から笑われたとき。反対に笑ってもらいたくていった冗談が、ひとつもウケなかったとき……。 あーあ、ダメだなあ、とつくづくイヤになるのだが、しかし「それを軽蔑することもなし」と口ずさむことによって、少し気が晴れるし、これでいいのだと思えてくる。 「ダメな自分」を軽蔑するのではなく、そのまま受け入れてみよう……そうすると「ダメな自分」であっても、なんともいえぬ愛着がわいてくるのである。この「自分への愛着」が幸せな気持ちの原点のように思うのだ。 「いろいろな欠点はあるけれども、そういう自分でも好き」という気持ちがあってこそ、心にゆとりも生まれるし、少しずつ、「どうにかなってゆく」と思う。自分を軽蔑していては何も始まらない。 5 むりな「前向き」よりも、「ありのまま」が素的である 能の観世栄夫さんが、雑誌で対談をやったときに、こんなことを述べた。 「花がどうして美しいかといえば、そのときに、当然、そこにあるべきように咲いているから美しいんですね。いまのように人工的に咲かせて、季節外れに形だけ咲いていたとしても、あんまり美しくない。自然の要求で咲かなければね」 ……たとえばこの「花」を「人」に置き換えて考えてみると、いろいろな意味合いを持っていることがわかる。 私流に解釈すれば、「そこにあるべきように咲いている」「自然の要求で咲いている」とは、「むりをせずに、そのまま、ありのまま」ということ。 花は「前向きな気持ちで花を咲かそう」と思っているわけでもなく、「後ろ向きに花を咲かそう」と思っているわけでもない。「そのまま」の姿で花を咲かせているだけなのだが、だからこそ美しい……というわけだ。私たちも同じで「そのまま」に生きている姿が美しい、そういうことだろう。 では、「人工的に咲かせる、季節外れに形だけ咲かせる」人とは、どのような人なのか。 これまた私流にいわせてもらえば、ほんとうは前向きな気持ちになれないのに、「私は前向きに生きています」というフリをしている人のように思う。 フリをして生きている人は、いってみれば「自分」を盆栽にしてしまっている。枝を切って幹を曲げて、「心」は悲鳴を上げているのに、「私は前向きにやってます」と笑顔を見せる。その姿は健気ではあるけれども、周りの人を安心させるような強さや美しさは備えてはいない。 そうならないためには、自分に、あまりむりなことを要求しないことだ。前向きになれないのなら、むりして前向きにならなくてもいいのだ。明るい顔をすることができないのだったら、むりをして明るい顔をすることなどない。クヨクヨウジウジしたいときは、クヨクヨウジウジしながら、気持ちが前向きになってくるまで「待つ」のがよいと思う。焦ってはならない、むりをしてもならない。 自分にすなおにクヨクヨウジウジできる人のほうが、フリをしている人よりも笑顔は美しいのである。中途半端なつくり笑顔よりも、ずっと素的であると思う。 11 自分と闘うより、自分を許そう ここまで「とらわれ」という言葉を通して「自分とどうつき合っていくか」について考えてきて、多少まわりくどく、理屈っぽく聞こえたかもしれないが、これは、ひと口でいえば「許す」ということだろう。 いじけたり、ひがんだり、すねたり……劣等感を感じたり、迷ったり、世間体が気になったり……自分自身、自分の性格、自分の生き方といったものに不満を持ってしまうのは、人間であれば当然のことなのだから、そういう気持ちが自分の中に生まれることを受け入れて、許してみてはいかがか。 ネガティブな感情と闘って、それをねじ伏せてしまおうと思うのは、あるいは勇敢なことなのかもしれないが、そんなことをしても「心が立ち直る」ことはない。すでに心は弱っていて、自分と闘うだけのエネルギーはほとんどないのである。むりやり立ち直らせたとしても、手を離せばまたヘナヘナと倒れ込んでしまうのがオチだ。 そんなことをしなくても、心は自然に立ち直っていく。私たちがするべきことは、それを静かに待っていることだ。いわば「持久戦」である。 できれば日当たりのいい場所で、栄養を十分にやりながら、弱った心を養生してほしい。自分にとって、気持ちのいいことをすること。親しい友人に会って、日が暮れるまで、おしゃべりをしているのもいい。おいしいものを食べながら、であれば、もっといい。そのうちに気づいたら、心が立ち直っていた。自分が元気になっていた……と、そういう「立ち直り方」が理想である。 「自分と闘うのは疲れるだけ、ダメな自分を許すことで元気が出る」 「心が弱っているときは、何か楽しいことをやる。楽しいが心の栄養になる」 そうしながら、たとえば……長年連れ添った夫婦のように、自分とつき合っていくのがよい。円満な夫婦とは、けんかもすれば不満もいい合う。しかし心のどこかでは、お互いに許し合っている 自分にいじけたり、自分に不満を持ったり、自分を情けなく思ったり、しかしそんな自分と「許し合いながら」やっていく、そうすることで自分と仲良くなれる。「自分」と折り合いをつけながら円満に生きていける自分に元気が宿るのだ。 2章 がんばり過ぎは、心が貧しい 21「泣ける人」ほど、心のバランスがよい テレビのトーク番組で、五十代の世界的に有名なデザイナーが、自分の半生を語っているうちに感きわまって、恥も外聞もなく泣いた。私は正直いって、感動した。 「泣ける」ことは、少なくとも「泣きたいのに、がまんする」ことよりも「心の健康」のためにはよい。 いくらがまんしても、心にたまった悲しさ、悔しさ、思うようにならない焦燥感、ストレスといったものは、いずれ「形を変えて」出てくるものなのだ。たとえば、不眠、肩凝り、食欲不振、胃痛、倦怠感、肌荒れ、お腹の張り、といった症状になって現れてくる。いずれも「心の病」が疑われるような症状だが、そうなる前に涙にして流し出してしまったほうが健康的ともいえる。 「弱音をいう」ことについても、同じことだ。へたにがまんなどしていると、いずれ不眠、肩凝りなどの症状が出てくる。 そうなる前に、次のことを実践してほしい。 「泣きたい気持ちは、むりしてがまんしない。泣いて晴らそう心のモヤモヤ」 「弱音をいいたい気持ちは、むりしてがまんしない。弱音をいって気分は爽快」 ある女性は、どうしようもない気持ちになったときは、ひとりになって思う存分弱音をいって、思う存分泣きじゃくることによって、心はスッキリするという。 これは、ストレス解消のための、いってみれば「ひとり遊び」のようなものかもしれない。あなたも、自分なりの「ひとり遊び」を工夫してみてはいかがか。 涙を流せる、弱音を言える……そういう人の心は健康である。 もちろん、毎日、泣きながらグチをいうのではない。ふだんは気を張っている人が、ふいに涙を流し、弱音をいうことによって、心のバランスを取りもどすのがよい、ということだ。自分の心というのは、何かと代替できるのものではない。ひとつしかないのだから、大切に扱わねばならないのだ。 男の涙はみっともない……というのが世間の目であり、そのために男のストレス解消法は「お酒」に向かうのかもしれない。仕事場ではプライドをズタズタにされ、やりきれなくなり、しかし泣けないので酒でごまかす。泣いてしまったほうが健康にはよいのだが。 |
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