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まえがき
ひとむかし前までは、年寄りが元気よくしていると、「年寄りのくせに、海外旅行なんていって」「ほしいものがあったら、おっしゃってください。こちらで買ってきますから。わざわざ、あんな遠くまでひとりで出かけていかなくてもいいんです。その年齢で」「その年で、そんなことを始めるなんてむちゃですよ。年寄りの冷や水っていうでしょう」なんて、いわれ方をされたものである。
そこにあるのは、年寄りはおとなしく、縁側でお茶でもすすりながら日向ぼっこでもしていればいい、それが年寄りの幸せなんだから……という考え方だ。
しかし今、そんなことはいわれなくなった。とてもいいことだ、よしよし。年寄りだって若い人たちに負けずに、もっと色々なことをしたかった、またその体力も能力も十分にあったのだ。そういう年寄りの気持ちが、社会に受け入れられるようになり、年寄りにとっては格段、幸せな時代になったのである。
だからこそ声を大にしていいたい。「いきたいところへは、どんどんいってやれ。やりたいことは、どんどんやってやれ」と。
年寄り自身も、「自分は、もう年も年だから」と考えてはならない。自分がイメージする年寄りの姿に合わせ、いかにも年寄り臭い年寄りになろうとするのはやめること。そういうのは「古いタイプの年寄り」と申し上げておく。
青春が人生で一度きりしかないように、70代80代、そして90代も人生では一度きりしかない、すばらしい秋(とき)なのだ。春には種をまく楽しみ、秋には刈り入れの楽しみがある。天高く馬肥える秋。
そうなのだから、「よし、しょぼしょぼしてはならぬ。もっと楽しんでやろう」と、自分に気合いを入れてほしい。
私の知り合いの中にも、そうとうな年齢になってもなお若々しく、元気ハツラツな人たちがたくさんいる。そういう元気な年寄りに共通するものを、ひと口でいえといわれれば、「行動的である」ということではないかと思う。
あれこれ考えないのだ。そんな暇があったら「すぐ動く」だ。「面白そうだな。楽しそうだわ」というものが見つかったら、ぐずぐずしない。ともかく、そこへいってみる……この「軽さ」が、元気のヒケツなのではないか。
浅はかといわれようが、拙速といわれようが、もっとよく考えてからにしたらといわれようが、早とちりといわれようが、まったく意に介さない。思い立ったら吉日、すぐさま手と足が動いている。その軽さが、「長生き元気」のエネルギーを生み出す源となっているのではないか。
百歳になる、ある人は、「反省すれど、後悔せず」といったそうだ。私のような、いいかげんな人間になると「反省もせず、後悔もせず」だ。まあ、いまさら自分のしてしまったこと、過ぎ去ってしまったことをあれこれ考えたってしかたないではないかと思うのだ。
「これまで」のことより、「これから」のこと。
「いま、このとき」を、どうやって生きるか、何をするか。
今回の本は、私が以前に本や雑誌で書いてきたこと、講演などで述べてきたことを、出版社の編集者たちによってまとめてもらって、かなりの部分を作り上げた。また私も関係し、会長職を仰せつかってもいるのだが、厚生労働省の関係でシニアプラン開発機構という組織がある。そこの研究資料も参考にさせてもらった。
そのせいか、とても「元気な本」になったと思う。世のお年寄りにも、いい刺激となるだろう。お礼申し上げる。
(斎藤茂太)
◎「反省しない、自分を責めない、すぐに忘れる」──これが快老3カ条
さて、何事も楽観的に考える……そのほかにも年をとることを楽しむ、上手に年をとるためのコツがいくつかあるように思う。
ささいな失敗は、その場で忘れてしまうこと……これも年寄りには大切なことだ。
年をとると、だれでもそうだろうが、うっかりした失敗をするようになる。私も例外ではない。中国の四川省成都に旅行した折だった。パシャパシャと写真を写しながら街を観光して回っていたのだが、ホテルに帰ってハタと気づいた。カメラにフィルムを入れ忘れたまま、シャッターを押していたのである。
こんなことは、しょっちゅうだ。私の場合、とくに旅行がらみの失敗が多いようである。四国へ講演を兼ねた旅に出たさい、羽田空港のチェックインカウンターで口の中が何か寂しいことに気づいた。入れ歯を忘れたのだ。
旅先で、航空チケットの入った封筒の電話番号を見ながら電話をかけ、そのままチケット入りの封筒を置き忘れてしまったこともあった。
字を忘れて書けなくなることも、よくある。人の名前を忘れてしまうこともある。われながらあ然としてしまったのは外出中に、自分の家の電話番号を思い出せなくなったときだった。手帳をあれこれとめくっても、人の電話番号はあっても、自分の家のものは書いていない。まあ、やっとのことで判明してどうにか助かったが、恥ずかしいかぎりである。
恥ずかしい……?
いや私はもう、そんなささいな失敗(ささいではない失敗もあるが)を恥ずかしいと思うことは、やめることにした。
恥ずかしいとは思わない。反省もしない。自分を責めることもしない。では、どうするか。失敗をしたことなど、その場で忘れることにしている。
深刻に考えても、しょうがないのだ。顔を赤らめて「だめだなあ、オレは」と頭を抱える。それで20歳の頃の自分に生まれ変われるのか。白くなった髪の毛が黒くなるというのか。皺の数が減るのか。もしそうならば、いくらでも恥ずかしく思うだろうし、反省もしよう。しかし、そんな奇跡は起こらない。「老いたわが身」が情けなくなるだけだろう。
そうならば、「この世の終わりがくるわけじゃなし、まあいいじゃないか」と軽く受け流して、あっけらかんとしているほうがいい。いや、ときにはもっと過激に「知ったことか、知っちゃいねえや」と、自分に啖呵を切るのもいい。
「老い」を自覚させるような出来事は、都合よく忘れてしまうこと。これに、かぎる。それが「老い」を楽しむことにもつながる。快老もいいが、ときには怪老だっていいのだ。
◎節度があってこそ、「日々満足」に過ぎてゆく
「少欲知足」という言葉がある。欲を少なくしておくことによって足るを知る……私の好きな言葉だ。また老後を楽しく生きてゆくためのモットーとしている。
幸せとは何だろう、と考える。大脳の専門家にいわせると、それは「満足すること」なのだそうだ。何かに満足すると「生きていてよかったなあ、幸せだなあ」という感情が脳にわき出してくる。
それなら、話は簡単ではないか。欲を小さくし、ささやかなことに満足することで、一日のうちに何度も何度も幸せな気持ちを味わうことができる。鉢植えの花がきれいに咲いていたときは、「ああ、よかったなあ」と満足しよう。デパートの地下で買ってきたお寿司がおいしかったら、心から満足して「ごちそうさま」といってみよう。お化粧のノリがいいことにも満足しよう。お天気がいいことにも満足しよう。満足する数だけ幸福が訪れる。
それでは不幸せとは何だろうと考えると、それは「満足できないこと」なのであろう。だから欲張りになると幸福になれない。もっといいもの、もっとたくさん、もっともっと……と、いつまでも、これで十分だと思うことができないから。その「足りない分」だけ、頭の中がイライラ、クヨクヨに独占されてしまう。
年をとると、一日一日の大切さが若いときよりもずっと増してくる。欲張りになり過ぎると、この「今日という日の大切さ」を忘れがちになる。
年をとると人は、自然に欲が小さくなってゆくと考えている人がいるが、それは逆様だ。むしろ欲張りになっていく。むかしの権力者たちを見てもわかる。豊臣秀吉にしても、中国の西太后にしても、晩年に近づくにつれて欲望が深くなっていき、人としての節度というものを見失っていった。
あれは、ある意味、人間の「自然な姿」なのだと思う。
意識して「少欲知足」を心がけることだ。ほどほどのところで「ああ、よかったなあ」と満足すること、初めからあまり多くのことを望まないことである。欲ボケした年寄りは醜いものだ。
◎恥ずかしながら、年をとると「新婚気分」がよみがえる
夫婦のことについても述べておきたい。
年をとると、夫婦というものについて真剣に考えるようになるものだ。
ご亭主ならば奥さんの、奥さんならばご亭主の顔をつくづくと眺め、ああこれがオレの女房なのか、私の夫なのか……こんなに相手の顔につくづくと見入ったのは、おそらく新婚のとき以来なのではないか、と。
しかし不思議なことだ。ずっと、ひとつ屋根の下で暮らしてきたはずなのに、自分たち夫婦はいったい何をしてきたのか?
考えてみれば何ということはない。
夫は朝早く会社へ出かけたきり夜遅くまで家に帰らず、奥さんは子育てにパートにご近所づき合いにと追いまくられ、ひとつ屋根の下に暮らしているとはいっても、お互いにバタバタしながら毎日すれ違ってばかりいて、顔を見つめ合ってゆっくりと話し合うことなどほとんどなく、30年も40年も過ごしてきたのだ。
それが子供が家を出て、ご亭主が定年になるのをきっかけに、格段に「夫婦の時間」が多くなる。それこそ一日の大半を夫婦で顔をつき合わせて暮らしていくようになる。
この時期に「夫婦で何を話したらいいかわからない」「ふたりきりになると、気まずい雰囲気になってしまう」「他人行儀になってしまうというか、遠慮し合ってしまうというか」と訴える人も多いようだ。
しかし夫と妻がギクシャクした関係のままでは、幸せは望めまい。なんといっても夫婦ほど、心強い老いの伴走者はいない。定年離婚、熟年離婚も珍しくはない世の中にはなったが、できることならば夫婦がともに手を取り合っていってこそ、年寄りの生活も充実したものになる。
むかし、ある老夫婦の家をお訪ねしたら、おふたりが仲よくふとんを並べて昼寝をしていた。その姿を見て「いいなあ、私たち夫婦も年をとったら、こういう夫婦になりたいものだ」と妙に感心したことがある。ひとりきりよりも、やはりだれかがそばにいてくれるほうがいいものだ。
さて、そこで大切になるのは、第2の人生をスタートさせるにあたって「夫婦をやり直そう」と決心することではないか。相手と結婚し直すというのか、夫婦のこれまでとは違った、新しい生活がまた始まるのだという気持ちを持つことである。
ご主人の定年記念に海外へ旅行して、現地の教会で2度目の結婚式をふたりだけで挙げる熟年夫婦がいるそうだ。なに、海外にいかなくてもいい。夫婦ふたりきりの結婚式ならば、わが家でもできる。お互いの顔を見つめ合って、いま一度新婚気分に戻るのもいいのではないか。
新婚のときには、お互いに「一生、この人と一緒に暮らす」という強い気持ちがあっただろう。しかしそこには、ロマンチックな気分もだいぶ入り混じっていたように思う。しかし、年をとってからは、「一生、この人と一緒に暮らす」ということが、現実になっている。もう、変化はいらない。「日々たんたん」と、この人と一緒に暮らすところに、穏やかな充実がある。
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